ネヴィル・ミュアー

2020年11月12日は主が、DMIの創始者であり敬愛されたネヴィル・ミュアーを、主と共にある、より良い世界に連れて行くため、この世を去ることを選ばれた日でした。

DMIオーストラリアのコーディネーターであるアンドリュー・ミラーは、DMIの英語のブログでネヴィルへの美しい賛辞を書きました。(英語を読める方はhttps://deafministriesinternational.com/neville-muirをご覧ください。) 下記の日本語訳は、おそらくそれほど雄弁ではありませんが、楽しんでいただければ幸いです。

ネヴィル・ミュアー ~ 記念

1945~2020

とりわけ際立つ人はいるものです。

ネヴィル・ミュアー氏は、偉大な人物でした。彼は世界中の何千人もの人々に愛され、賞賛されていました。彼は多くの知らないファンから愛される有名人とは違い、個人的に付き合いをしてきた人たちから、尊敬され、愛されていました。彼は、揺るぎなく神様を追い求める心を持った人だったのです。

私がネヴィルと初めて出会ったのは、1994年の大阪インターナショナルチャーチ(OIC)でした。当時、ネヴィルと彼の妻リルはブレント、エリック、デビッド、イアンという4人の子どもたちを連れて教会に来ていました。中でも、末っ子のイアン君はいつも芸達者でパーティーの人気者でした。そのころ、OICは日本におけるDMIの拠点となりました。OICの創立者であるジャック・マーシャル牧師は、91歳の現在においてもDMIの日本支部の理事を務め、支援してくれています。

私は、箕面国際教会で牧師を務めるようになってから、献金先として、DMIを最優先することになりました。それは私にとっては明確なる決断でした。ある日、私たちの教会を訪れたネヴィルが、信者達に向かって話していたことを今でも覚えています。ネヴィルは、イエスのように「私たちを惹きつけるような華やかさや威厳もなく」、パウロのように「話術の訓練も受けていない」人だったかもしれませんが、彼はキリストのような優しい語り口で私たちを魅了し、私たちの心を掴んだのです。ネヴィルが優れていたというのは、彼のビジョンや人生で成し遂げた事柄だけではなく、彼自身が魅力あふれた存在であったからです。

彼が行くところにはどこでも、イエスの臨在がありました。どこに行っても人々はネヴィルに応えてくれました。誰もがネヴィルを愛し、彼には常に神のご加護があったのです。彼が謙虚に優しくユーモアをもって、そして驚くほどの思いやりをもって人々に関わっているのを見ると、私達はとても幸せな気分になったのです。

ネヴィルの夢は、発展途上国のろう者に教育と雇用を与え、福音を伝えることでした。その夢は、彼が40年以上前に一人のろう者の少年のスポンサーになったことから始まります。そして今日、彼のミニストリーは世界中に広がっているのです。私は何十年もDMIと関わり、何年もDMIで働いてきましたが、ネヴィルがこれまでにどれだけ多数の人々に手を差し伸べてきたのかは、測り知れません。

これは、ネヴィルが奉仕活動をいかにたくさん行ってきたかだけではなく、彼が常に謙虚な姿勢で奉仕活動を一つ一つ行ってきたからです。DMIのオフィスでは毎週、遠く離れた地域から連絡が来ます。子どもをスポンサーしてもらったり、医療費の支払いをしたり、教室を開いたり、信者に洗礼を授けたり、他の伝道者に支援したりという連絡が来ます。その業務はあまりに多岐に渡っており、ネヴィルがどのように世界へ働きかけていたのかを特定することは、ほとんど不可能に思われます。さらに、経済的な助けが必要な時には、ネヴィルは自分のポケットにそっと手を入れて支払いをしていたのです。

ネヴィルは苦難と困難に直面しても、いつも偉大な信念を持っており、いつも冷静で信頼の厚い人でした。彼の不可能なように思える伝道活動は時に意味があるのだろうかと思えることもありましたが、見捨てられた人々へのネヴィルの愛は尽きることがなく、彼は常に神を信じていました。するといつも、どういうわけか、さまよう人々に手を差し伸べることができたのです。どういうわけか、適切な場所が見つかったり、お金が入ってきたりしたのです。どういうわけか、全ての物事がうまく進んだのです。

また、彼は偉大な人格の持ち主でした。40年間と言う長い宣教活動の間には、必然的に時折、誤解や道徳的な誤り、裏切り、損失を目の当たりにすることになります。しかし私は、どんな時でもネヴィルが腹を立てたり、決意を失ったりするのを一度も見たことはありません。それどころか、いつも彼は、知恵と謙虚さと忍耐力と決断力と思いやりをもって、あらゆる困難な状況に立ち向かっていました。

ネヴィルは、ユーモアに富んだ人でもありました。彼との会話は、いつも笑いが絶えませんでした。特に国際的な手話に関しては、彼は自虐的なユーモアで、自分の下手な手話を見て大笑いしたものでした。ミャンマーで、「タクシー」の代わりに「トイレ」という手話をしてしまったり、韓国で礼拝の後に「コーヒーとセックスを楽しんでください。」と、誤って勧めてしまったりと、国際手話が彼にもたらした過ちは尽きることがなかったようで、ネヴィルはそれをどうしようもないなと諦めているようでした。

このような彼の少々自虐的であり機知に富んだ性格は、彼の病気の時ほど顕著に現れたことはありませんでした。ネヴィルは過去、約7年間、複数のがんと闘ってきましたが、彼は誰にも隠さず病気の治療のことを話してくれました。2017年にノルウェーで開催された会議の時に起こった、あの恐ろしい話を誰が忘れることができるでしょうか?「ノルウエーに向かうフライトの中で私は出血し始め、到着してすぐに 病院で膀胱鏡検査を受け、カテーテルを入れることになってしまったんだ。何も食べられず、唯一の人間との接触は、真っ黄色の防護服を着た看護師が病室に入ってきて、カテーテルを交換してくれる時だけだったんだよ!つまらなかったんだよ!」と。これは、個人あてのお手紙に綴られたことではなくDMIメンバーの皆様あてのニュースレターに書かれた文章だったんです!あまりネヴィルを個人的に知らない人にしてみれば、内容が個人的で詳細すぎて驚き戸惑うでしょうが、ネヴィルにとっては、私たち全員が彼の家族の一員であり、彼と旅路を共にしていることになるのです。ですから、笑い話として私たち全員に聞いてもらいたかったのでしょう。

そして、ネヴィルは偉大な使命感を持っていました。それは途方もなく大きな使命感であり、 さらにもっと大きく広がった彼の宣教活動は、そのすべてを記録することは今では不可能になってしまったのです。ネヴィルがうちの教会を訪問したある時、世界の最も辺境の地にいる、さまよう人々の話をしてくれていました。彼の話が終わって、私がネヴィルに、誰がそのような話を全て記録してくれているのかと尋ねたところ、記録は誰もしていないと言うのです。その瞬間に、私にブログを書くと言うアイデアが生まれたのでした。なぜなら、DMIの学校や教会、プロジェクトについては、ニュースレターでいつも詳しく紹介されています。しかし、ブログは、個人個人のストーリーに焦点を当てて書かれます。 このように、彼の人生の最後の1、2年の間に、ネヴィルに自伝を書くように促したのは私だけではありませんでした。しかし、私の知る限りでは、彼が最初に書きかけた段落を終わらせたことは、おそらく一度もなかったでしょう。彼についての本が何冊あってもよさそうな人物ですが、自伝を書くことは大変なことだったのでしょう。

私がネヴィルと同行した最初の旅はミャンマーでした。ビルマの法律で旅行者はホテルに泊まらなければなりませんでした。 一週間、私たちは二人だけで夕食を食べ、人生を共有し、ビジョンを共有し、笑いを分かち合いました。それはとても豊かな交わりの時間でした。彼とそのような時間を過ごせたことをとても光栄に思っています。

また彼は、心から家族を愛する人でした。彼は妻のリルと息子たちをとても愛しており、大きく繁栄し成長した自分の家族をとても愛していました。彼が、孫の誕生日に出席するために、イベントに参加できなかったり、課題をこなすことができなかったりすることを、私はいつも微笑ましく思っていました。彼はいつも家族を第一に考えていましたし、今日の彼の家族の絆の強さは、彼の家族に対する献身的な姿勢の結果だと思います。

ネヴィル・ミュアー氏の人生は、私が今までに出逢ったキリスト教徒の生き方の中で、最も素晴らしい模範でした。彼は、誠実で実り多き奉仕者たちの中でも、特に優れていました。彼は良きサマリア人の体現者であり、良き羊飼いの典型でした。彼は先駆的な宣教師であり、現代に生きる使徒でもありました。世界中の何千人ものろう者と聴者が、彼の福音への愛と彼らへの愛の影響を受けています。私たちはかつて、「彼を『ビーコンズフィールドの聖なるネヴィル』と呼ぶべきだ」と冗談を言い合い、皆で笑いましたが、それはネヴィルのためというよりも、私たちが彼のことをそう呼びたかったのだと思います。

ネヴィルが亡くなったという訃報を聞いたとき、私は、最初は悲しみに打ちひしがれていましたが、自分の感情を理解しようとするうちに、悲しみの代わりに感謝の気持ちが湧いてきたのです。ネヴィルが恋しいです。これから、彼がいないのかと思うと寂しくてたまりません。しかし、彼を知ることができ、一緒に仕事をし、友情を分かち合う機会を得られたことに、とても感謝しています。ネヴィルがなし遂げた事は何十年、いや、何世紀にも渡り受け伝えられるでしょう。次の世代が彼について聞いたとき、私は、「ネヴィルと共に歩んだのです」と誇りを持って言える一人です。

われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。
詩篇90:12